特別審査員 中尾 彬さん
野獣のようにギラギラ 都電の線路を歩いた夜
私は千葉の生まれなので、都電に乗るようになったのは遅いんです。練馬で下宿を始めて劇団に入ってからだから。稽古場が青山だったので練馬から信濃町に出て、「信濃町」から「南青山一丁目」まで都電。あれは何系統だったのかな、七系統?十五円でしたね。懐かしいなあ。
劇団時代は都電で六本木に飲みに行ってたねえ。若い役者仲間で「野獣会」なんて会をつくって。東京オリンピック前に、都の条例ですべての飲み屋が十二時閉店になって、朝まで飲める店は六本木にしかなかった。大使館があって外国人がたくさんいて、アメリカ文化が入ってきた時代。一杯のコークハイで初電までねばったり。しらじらと夜が明ける中、靴を脱いで都電の線路の上を歩いたりね。今は、そんなことまねしたらダメですよ(笑)。あのころ都電は東京中を整然と走っていて、その線路の冷たさが気持ちよくてね。「これが格好いいんだ」なんて粋がりながら。当時はまだ誰も売れてなくてギラギラしてて。野獣会は夜な夜な都電に乗っては、うろうろしていたんだな。
都電に乗ると感じる その町ごとの匂いや風
最近は駅や町並みが、どこも同じようになってきてますよね。都電に乗っていると、その町ごとの匂いや風を感じたものです。そういう町の写真が撮りたくて、荒川線にはよく乗りに行きましたよ。以前の事務所が「面影橋」にあったので。都電の停留場は名前がすてきでしたよね。停留場ごとにその町になじんだ名前があった。昔の町名が消えても、荒川線の停留場には残ってますね。「庚申塚」「飛鳥山」「熊野前」…時代劇に出てくるような地名が、そのままね。
東京オリンピックに向けて、都電を復活できたらいいなあ。競技会場を路面電車で結ぶなんて、どう? ウオーターフロントあたりを都電が走ったら魅力的だと思うなあ。停留場名はぜひ昔の町名でね。
青山通りを走る都電。中尾さんが稽古場から六本木へ繰り出したルート
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中尾 彬さん
俳優。1942年生まれ、千葉県木更津市出身。61年武蔵野美術大学油絵科入学、同年日活第5期ニューフェイス合格。63 年パリ留学、帰国後劇団「民芸」入団。64 年日活映画「月曜日のユカ」でデビュー、71 年フリーとなる。83 年フランスの絵画展でグランプリ受賞、バラエティ番組多数出演など活躍の場を広げている。妻はタレントの池波志乃。