都電がなくなった…日
菊地 孝一 49歳 東京都江戸川区在住
太平洋戦争で海軍の特攻隊に志願するも、戦況の悪化により特攻機が日本に一切なくなり、東京大空襲を経験しながらも命からがら終戦を迎えた父と、集団就職で岩手から上京した母が、昭和三十八年に父の実家・東京神田東松下町で「小さなネーム刺繍屋」を始めた。昭和三十九年、東京オリンピック開催に際し、何となくその景気に乗り、江戸川区に二つめの住居を持てるぐらいになった両親。昭和四十二年の「体育の日」に私を授かった父は、ダットサンサニーを持てたことが嬉しく、私を乗せて都内中を回ってくれた。渋滞や信号待ちなど、車のすぐ横に都電の「黄色い車体」があった。私は都電の方が乗ってみたかったが、父はあまり乗せてくれなかった。
父が都電に乗せてくれなかった訳は、東京大空襲の時、都電から逃げようとした人たちの折り重なった焼死体を見たのが理由だそうだ。さすがに都電が「廃止」決定の報が広まり、その最終日だと思うが、父は帰宅の際、「都電で錦糸町まで帰ろう」と私を連れて岩本町から都電に乗り込んだ。どの停留場だったか忘れてしまったが、当時、若いOLさんだったか、乗り込むとき「花束」を手にしていた。運転手さんがブレーキをかけ、年季の入ったブレーキ弁を外して、キョウツケをして一礼し、その乗客から花束を受け取っていた。運転手さんの目は、涙をこすった後で真っ赤であった。当時は高価なモノだったと思うが、きれいな透明のセロハンに包まれた白いカトレヤの花束が今でも五歳の記憶として真新しく残っている。その翌日、都電のレールがわずか一昼夜にして都内から消滅していた。