戦時の都電と千人針
鈴木 審平 79歳 東京都世田谷区在住
太平洋戦争の頃、今の六本木ヒルズの渋谷寄りの辺りに材木町という都電の停留場があり、大きな材木店があった。現在の西麻布にあたる霞町から今と同様に坂を上って行くと、立てた材木の上方に白い雲と青い空がよく見えた。
昭和十八年、東京府と東京市が合併し、「東京都」が生まれた。それに合わせて市電も「都電」と呼ばれるようになった。子どもたちは学校でそのことを教わったのですぐに慣れたが、大人たちの中にはうっかり「市電」と言ってしまう人もいた。
そんな都電の停留場は、幅の狭いコンクリートの台。その上と路傍の間を乗降客は車を避けながら往き来した。乗用車は当時少なく、トラック、バス、商業車などが今よりゆっくりと走り、木炭自動車は坂の途中でよく立往生した。
やがて空襲で街は一変し、真っ黒な焼け跡と都電の線路だけの光景が随所に出現し、風がない夜に燐光が飛ぶと、その下には死体があると大人たちは言っていた。
徴兵により、家族で一番大事な人が戦地へ向かう。残された家族ができるのは、なけなしの食料で最後のごちそうを作り、生活に必要なものやお守りなどを揃えることで、千人分の心を込めた千人針は身につけた者の身を守ると多くの人が信じていた。一片の召集令状で突然徴兵された身内を守ると信じられていた千人針。それぐらいしか家族にできる事はなかったのだ。人の集まる停留場付近で布と糸を必死に差し出す婦人がいると、皆が駆け寄って行列を作り、一針ずつ急いで縫う。ひどい時代だったが、困っている人がいても知らん顔をする人は少なかった。当時の庶民の心は、今よりも優しさに溢れていたのかもしれない。