枕木で救われた命
井上 孝 83歳 東京都狛江市在住
昭和十九年初夏、鉄材の不足から十六系統の数寄屋橋・新橋駅間が廃止になり、銀座に住んでいた我が家の前の線路は取り外されて、枕木だけが残されていた。
それからまもなく、空襲に備えて防空壕造りが始まった。我が家でも床下に造ったが、通行人のために現外堀通りの歩道にも防空壕が造られ、我が家の前の防空壕には都電からはずされた枕木が被せてあった。
昭和二十年一月二十七日の銀座空襲のとき、私は歩道の防空壕に入っていたが突然の砂嵐。爆風が去ったあと、外に出ると目の前に大きな穴があいていて、その先に馬と馬方が倒れていた。振り返り我が家を見ると、家の中の防空壕や床の上、柱や家具には表戸のガラスの破片が突き刺さり足の踏み場もない。
もしもあの時、我が家の防空壕に入っていたなら…。
全身にガラスの破片が突き刺さり命さえ危なかった。しかし枕木の防空壕は、飛んできた大きな石が乗っているのにびくともしなかった。私は都電の枕木に命を救われたのである。
銀座の家が住めなくなったので、隼町に越すことになった。使えそうなものだけをリヤカーに積み、一日の仕事を終えた父が前を引き、母が後ろを押して三宅坂を登っていく姿。子どもだった私は、十一系統新宿行の都電に乗り車窓に額を押しつけて、その姿を眺めながら、歩く両親を追い越していった夜。
七十年経った今も、忘れることはできない。