車掌さん、ありがとう。
北尾 英子 90歳 東京都中野区在住
市電の思い出は、昭和十八年の二月、私が十八歳の頃です。女学校を卒業する年に、東京の専門学校を受験するため、家のある横浜から電車で東京駅まで行き、八重洲口の前から市電に乗った時のこと。私の家は母子家庭で、何でも一人でやる習慣は身についていたものの、一度も受験校へ行ったことがなかったし、市電に一人で乗るのも初めてだったので、無事受験校に着くか心配で、胸がどきどきしていました。
新橋方面から走って来た電車の後部にいる車掌さんに「一ツ橋に行きますか?」と聞くと、年配の車掌さんに「行きますよ」と言われて市電に乗りました。
市電はやたらにガタガタと鳴り、つり革が左右に大きく揺れ、心配は増していきました。車窓を見て数分たった頃、車掌さんはわざわざ座っている私の所まで来てくれて「つぎが一ツ橋ですよ」と教えてくれました。「どこか間違ったところに行ってしまうんじゃないか」と不安そうな顔をしていたのが、分かったのかもしれません。車掌さんはとても優しい人でした。私はほっとしてお礼を言い、学校前で降りることができ、試験を受け、無事合格しました。そして三年後に教員免許を取得しました。あれから七十二年がたちましたが、黒い革の角のすれたカバンの車掌さんのことはよく覚えています。
車掌さん、私は教員になり、定年まで勤め上げ、九十歳を迎えました。ありがとうございました。