家族で上野松坂屋
霜田 久延 54歳 東京都江戸川区在住
私の家は本郷通りに面しており、家の前を都電が走っていた。母は都電で神田にある職場へ通勤し、たまの日曜日に家族で上野の松坂屋へ出掛ける時も都電を使った。
父と母、私と妹は十九系統の吉祥寺町の停留場から駒込方面の都電に乗り、上富士前町へ。ここで二十系統に乗り換えて上野広小路へ向かう。途中の池之端二丁目辺りから上野公園までは専用軌道のため、車の流れから解放された都電のスピードは一気に上がり、快適な乗り心地だったことを今でもよく覚えている。その軌道と交差するようにモノレールが今と同じように頭上を走っていたことも。
当時、デパートは今のように気軽に行くようなところではなく、家族皆がよそ行きの服装で、着飾って出掛けるところであった。滅多に行ける場所ではなかったから、買い物をして食事をして、家族団欒を大いに楽しんだものだった。
帰りは、電車賃を節約するために都電に乗るのは上野広小路から動坂下まで。四人で動坂を上り、家路へと向かった。
家の前を走り、生活の一部であった都電。しかし、昭和四十六年の三月。小学四年生の終わる直前に十九系と二十系は廃止になってしまった。都電のガタンゴトンの音がもう二度と通りから聴こえなくなることにとても寂しさを感じたものだった。
都電が走っていた頃は、朝は牛乳配達のビンの音、お昼はちり紙交換の声、夕方は豆腐売りのラッパの音、冬は石焼き芋の売り子の声――。都電の走る音とともに生活の音や声が朝から夜まで街にあふれていた。
それらの音や声をうるさいとは思いもしなかったことが、昭和という時代。「よき時代だった」と今は懐かしく思う。