夢見た市電
里川 長生 88歳 東京都豊島区在住
昭和十六年四月、願い叶って東京府立第三中学校に入学できた。当時から電車が好きだった私は、入学式の最中も明日からは妹や弟とは違う市電通学できる優越感に浸っていた。柳島~月島を結ぶ市電路線の千歳町停留場近くに家が在り、市電通学を夢見ていたからだ。ところが「本校から二キロ以内に居住の諸君等は徒歩通学」との決まり。妹達への優越感は消滅した。
入学後三年が経過した。太平洋戦争の影響は勤労動員という形で我々学生にも襲いかかってきた。昭和十九年七月末から亀戸の日立製作所へ都電で通うことになったが、中学入学時に憧れていた電車通学への夢はいつの間にか消えていた。
錦糸堀~亀戸九丁目を結ぶ旧城東電車路線には、時々、両端がオープンデッキの小型の単車形式の車両が運用されていた。走行中は上下運動する後部運転席にいた車掌さんは、我々より少し年上の二十歳前後であったと思う。週に一度会ったか、会わないかだったが、顔を会わせるうちに“おはようさん、毎日大変だね”“毎日ご苦労さん”などと、いつからか早朝の挨拶を交わすようになり、お互いに労をねぎらうようになった。都電はただの乗りものではなく、触れ合いの場となっていた。
しかし、昭和二十年三月十日の米軍の東京大空襲で、私自身は辛うじて死を免れたが、都電と車掌さんとの縁は断ち切られた。
今夏、幸いにも米寿を迎えた。
あの時の都電の混雑していた様子や車掌さんとのやり取りや面影は今も脳裏に残っている。