母と届けたお弁当
飛田 則文 49歳 東京都品川区在住
「手を離しちゃダメよ!」とキツく母に言われ、車が行き交う中、道路の真ん中にある東陽五丁目の停留場に足早に向かう。すると、錦糸町方面からきて橋を渡る都電の黄色が目に飛び込んできます。
一歩車内に入るとプーンと漂う独特な油の匂い。黒い床板に塗られたワックスの匂いだと幼少の私でも理解できました。
都電に乗り、私は毎日、母に連れられて門前仲町にあった父の工場へ夕食のお弁当を届けていました。当時は、高度経済成長の後期。父の仕事も忙しく、父は朝から夜遅くまで働いていましたから、家ではすれ違い。工場の片隅で一緒にお弁当を食べる時だけが、父と一緒に過ごすことのできた唯一の時間であり、家族三人だけのひとときでした。帰りは、小刻みに揺れる心地よい振動が、すぐに眠気を誘いました。
都電最後の日(昭和四十七年 三十八系統 錦糸町駅前~日本橋の区間を廃止)、四ツ目通りで鮮やかな花電車(装飾電車)を母と一緒に見に行ったことを鮮明に覚えています。橋の影から花電車(装飾電車)が見えると、母は嬉しそうに「きれいね」と見えなくなるまで見送っていました。母はしつけに厳しく、笑うことが少なかった…。だからかもしれません、あの時の笑顔は今も私の心に残っています。
最後の日から数年後、道路に路線が浮かび上がっていたことがありました。廃止になったあとの路線はそのまま道路の中へ埋められたのでしょう。その道路が磨り減り、現れたその二本線を見つけた時、「この道を走っていた都電はもうないんだ」と強く実感しました。
最後に都電が走っていた日から、もう四十年以上経つのですね。