小学生時代の市電通学
唯根 幸子 88歳 東京都北区在住
私が電車通学を始めたのは、昭和十年四月小学校に入学した時からである。勿論市電の時代だった。当時は小伝馬町に住んでいて、一系統の品川~雷門、三十一系統の東京駅~三輪橋と二十二系統の千住新橋~土州橋が走っていた。
小学校への行き方は二通りあって、一つは東京駅行に乗って新常盤橋で十六系統の大塚駅行に乗り換える。この線には優しく厳しい車掌のおじさんがいて、何かの用事で遅く乗ると「寝坊したのかい」などと言い、恥ずかしがらせたり、また下校時に男児が騒ぐと静かにするよう注意をした。また一方は、水天宮からくる三輪橋行で、御徒町三丁目で厩橋一丁目からの大塚駅行に乗る。これがすごく混む。
室町三丁目や春日町の交差点には、太い柱の上に人ひとり入る箱を載せた信号塔が建っていて、左折したり右折したり線路や架線を替える車体をリードする。曲がる車体が近づくと、ガシャンと線路が割れて目的の線路に載せる。車内では後部の車掌さんが窓を開けて身をのり出し、手に多分、感電予防のゴム薄板を持って上を見上げながら、頃合を見計らってロープを引き屋根上のポールを架線から外す。車体は全力で線路を曲り切るとポールを上げて次の架線にはめ直す。一度でうまくはまれば良いが、一寸ずれると青白い火花を放ってショートする。雨の日は仰向いて濡れながらの作業だ。 子供心にも「大変だろうな。一回で上手くゆきますように」と願って見ていた。
昭和十年代、夏休み間近の暑い日、運転席の後ろにある横の手すりにつかまっていると、気がついた運転手さんが右手の窓の戸をガタンと降ろして風を入れてくれる。ランドセルを手すりにもたせかけ、背に風を入れた涼しさを、今でも覚えている。