戦前の市電 戦後の都電の思い出
杉山 利清 83歳 埼玉県加須市在住
戦前戦中の市電と都電。一番古い思い出は、日中戦争と皇紀ニ千六百年の時に見た花電車。七色の電球で飾られていた富士山や、「爆弾三勇士」等。
交差点に立っていた、火の見櫓のような信号灯。乗換切符のパンチで解る、運転手と車掌の二人組。路面より一段高くなっている停留場、名前は「橋」や「町」が多かった。
昭和十八年、都電と改名。戦火に紛れても走っていた。二十年三月、中学受験で飛鳥山から駒込迄、十九系統で行った。一週間で学校が全焼。戦後の復興はいち早く都電から。夢か幻か、昭和初期の車両が上野、浅草間で運転されていた。運転席が客席より一段低くなっている木造小型車両。焼け残っていたことに驚きながら乗った。
二十六年、夜間大学に銀座から四系統で通った事、銀座の交差点での米兵の交通整理等。もう戦後ではないと、多くの路線が走っていた。全線定期券がとても廉価で便利、営業等にはよく使っていた。
市電都電の一番いい思い出は、街ゆく人の移ろい。着物から洋服へ、婦人の髪型。商店の季節感、特に暮正月の店の華やかさ、風に揺れる大売出しののぼり。街路樹の四季の移ろい。ガタゴトゆっくり走ることで、それらを間近に見学出来たことが、都電の豊かさ、ゆったりさ。
現在残るは、二十七系統と三十二系統を統合した荒川線のみ。思い出は風が運び、あの日あの時今蘇る、市電都電物語。